徒手空拳TOSYUKUKEN

創作と日常雑記のブログです。いつもはらぺこ。

2015/04/20 映画を刺身のつまにした話

先ほどまで、有名な映画評論家と音楽家の、ある映画を巡る論評を読んでいたのですが、僕には知性や読解力の対立ではなく、思考の癖や偏りによる評価軸の問題と感じられ、また、その熱量に圧倒されてしまい、刺激的で面白いなあと感心する反面、少々ぐったりしてしまいました。

そういえば、伊集院光氏が深夜の馬鹿力(ラジオ番組)で話していたエピソードに、こういうものがあります。レンタルビデオ店で『STAND BY ME ドラえもん』を借りてきた伊集院氏の奥さんが、最後までボロボロ涙を流しながら感情移入して見ていたのに、エンディングのクレジットに合わせてNGシーン集が始まった途端、「なんだ、今までのやつ全部演技かよ!」と急激に冷めてしまったとのこと。それに対し、伊集院氏本人は、『STAND BY ME ドラえもん』は未見ながら、そのネタ元(CGアニメでのNGシーン集という意味です)ともいえる『トイ・ストーリーのラストに流れるメイキング・NGシーン集がとても好きで、グッときていたらしいのです。そういう感性の違いって興味深いなあと思います。本来、CGアニメには存在しないはずの演技や撮影上の失敗をわざわざ作り込むスタッフの遊び心は素晴らしいですが、俳優が与えられた役を演じているという前提で見る実写作品と違い、アニメーションはどうしてもメタ認知が渋滞してしまう可能性をはらんでいますし、それを皮肉った演出をする監督もいますね。

ところで、僕にもやはりそういう思考の癖みたいなものはあって、例えば、映画好きの間でも非常に人気の高い作品の一つに『桐島、部活やめるってよ』がありますが、僕はいまいちのれなかったんですよね。
しかし、東出昌大氏演じる菊池宏樹くんの感情の機微には惹かれ、僕の中では、『桐島、部活やめるってよ』は、菊池くんが(裏主役ではなく)主役の成長物語となっていますし、さらにいうと、菊池くんにしかシンパシーを抱けませんでした。ちなみに、一緒に見た知人も同意見です。
でもこれは、僕がスクールカースト的上下関係に囚われることなく、島宇宙的な、比較的フラットな関係性を志向しているからということもあるのかもしれません。
もちろん、『桐島、部活やめるってよ』が好きな人を否定するわけではなく、あの映画がばっちりはまる人がいるのもわかります。ただ、僕はメインターゲットではなかったという自覚があるということです。

自戒をこめる必要性はあまり感じないのですが(だっておればかだから(でもこめる)、ある一定レベル以上の知性と教養があれば、自論を補強するように文脈を操ることができるようになります。ですので、扱う題材の如何に関わらず、牽強付会で好きな結論に持って行くことが可能となります。例えば、「あの人、毎回違う作品で同じようなこと言ってるような気がする」みたいな状態です。つまり、ある種の批評は、主従が逆になっているということです。多かれ少なかれ、何かを評価して発表するということは、自分の思考の偏りを世の中に開陳するということなのですが、作品を刺身のつまとして扱っているのか、刺身として扱っているのか、あるいは、たんぽぽなのか(というかあれ、食用菊ですよね)くらいは意識してみてもいいのかなと思います。
もちろん、主従が逆でも面白い文章はたくさんありますし、作品をまくらにした自分語りも読んでみたいです。