徒手空拳TOSYUKUKEN

創作と日常雑記のブログです。いつもはらぺこ。

日記というか雑記

ほんとこれただの書き捨てというか、ツイッターでやれよって感じの呟きなのですが、最近、ラべリングについての文章を別件で幾つか目にして、「これはひどいなあ、雑な論考で他人をカテゴライズして、上手いこと言ってやったみたいなのって、ちょっとした暴力だよなあ」と思い、はてなツイッターで他の人の感想を見てみると、面識はないのですが、普段から一目置いている人まで、批判的な意見に対し、「読解力がない」「皮肉ってことも理解できないのか」「直接書いてないことまで批判をするのは国語教育の敗北ではないか」「空気読めないバカが絡んできてるよ」みたいな、文脈すら否定するような、留保なく自分に理がある的煽りに加わっていて、同じ物を読んでるとは思えない、平行世界にでも迷い込んでしまったような不思議な気分になることがありました。
もちろん、自分の見立てが正しいなんて言い張るつもりはないですが、だからこそ、頭のいい人たちにはその能力を地獄を増やすためではなく、減らす方向に使ってもらいたいなあと思ったりします(もちろんなんの強制力もありませんので、お好きになさればいいとは思います)。

でも、考えてみれば当たり前で、皆さん常日頃から、知的誠実さをそんなに必要としているわけではないんですよね。なんとなく他人を見下して、なんとなく気に喰わない奴への煽りに加わる。他人を属性で括って、思考のリソースを節約する。自分にもそういう部分がないとは言わない。

ちなみに、批判意見の論拠を「他人をいけ好かないという感情が理解できない人っているんだよ」という、優等生的鈍感さに求める人がいたのも不思議でした。単に、「雑ですよ」「雑なレッテル貼りは地獄を増やしますよ」「雑なレッテル貼りは問題の本質を見えにくくしますよ」ってだけなんですけどね。
もちろん、そんなこと赤の他人にわざわざ言われなくとも最初からわかってやってるという方も少なからずいらっしゃると思います。
ややこしいのが、ある種の素晴らしいラべリングは、目から鱗を落とさせてくれることなんですよね。まあ大抵勘違いですし、そもそも「雑なレッテル」「言い得て妙なレッテル」を誰が判断するのかという問題が生じますが。多数決にしたって、人は神ではないし。

でもまあ、特にネット好きの人達の間にはこの手の思考パターンって染みついてしまっていて、今更「もう少しレッテル貼りについて慎重になってみては?」と言ったところで、スパルタ重装歩兵の群れに単騎素手で対抗するようなものなのかもしれないなあとも思っています。