徒手空拳TOSYUKUKEN

創作と日常雑記のブログです。いつもはらぺこ。

2015/05/22

ここ最近(というか昨日)のニュース等に対する感想を読んでいて、ふと思った事があったのですが、意外と、政治家に対し知性や品性などを求めていない人も多いということが理解されていないのではないかと感じました。

僕には、ある宣言をつまびらかには読んでいない某政治家を支持している知人がいるのですが、彼は、自分が応援している政治家が無知なことぐらい最初から理解しています。

本来、政治とは反証し合い議論を深めるものかもしれませんが、悲しいかなそれは理想論にすぎず、大半は強弁のめちゃぶつけですし、むしろ、真面目に議論をしようとして舌鋒鋭く相手の矛盾点を突いたりすると、「いじめだ!」と感じる人すらいます。俗にいう「観念的リベラルに対する嫌悪感」というやつです。

例えば、あるお笑い芸人のファンに対し、「この芸人は面白くない!」といくら指摘したところで、ファンの人にしてみれば、「この面白さがわからん方がおかしい」「センスがない」「好みは人それぞれやん」と言われて終わりですし(そもそもファンの人に「面白くなさ」を説得しようとすること自体が無粋の極みですが)、この「不可能性」が政治におけるディスコミュニケーションの正体であり、また、ある種の人たちにとって、品性や知識の欠如に対する指摘とは、そういった「無粋」に類似した心理的作用をもたらすような気がします。俗にいう「観念的リベラルに対する嫌悪感」というやつです。

すると今度は、「政治家にとってなぜ知性が重要なのか啓蒙してあげないと」「あるものをいじろうとしている人がその基礎も知らないなんて怖ろしい」「歴史に学ぼうよ」「そこからか!そこから言わないとダメか!」みたいになる人がいますが、赤の他人が成人を過ぎた相手を教育しようと試みること自体うざさ丸出しですよね(いくらそれが正しかったとしても)。これが、俗にいう「観念的リベラルに対する嫌悪感」というやつです。

で、ようやく本題ですが、一部の偏った保守(というか一部反動主義や一部反知性主義)の人の中には、積極的・能動的な思想があるわけではなく、この「観念的リベラルに対する嫌悪感」が強すぎるせいでこじらせてしまった人も多いように感じます。個人的には、嫌いな相手への不快感ドリブンで行動を決定するというのは、他人に舵を任せ過ぎな気がしますが、そういうこというと、これもまた「啓蒙」「教育」と受け取られかねないという。