徒手空拳TOSYUKUKEN

創作と日常雑記のブログです。いつもはらぺこ。

卵かけごはん

母子家庭に生まれた。
いや、「物心がついた時には母子家庭であった」の方がより正確か。
要するに、僕がまだ母親のお腹の中にいる時に、僕の生物学上の父親が外に愛人を作り、その女性と結婚したいというので、見事離婚と相成ったわけである。
まあ、よくある話だ。


母はよく働いた。そして、料理がとても上手な人だった。同時にてきぱきと幾つもの作業をこなし、さらに、早口な上におしゃべりなものだから、全てがハイペースで、僕とはまるで正反対の人だった。
例えば、僕は、歩いている最中に疲れると、どこにでも座り込んでしまうような子供だった。
母の歩くスピードの速さに、着いていくだけで精一杯だった。

ある日、僕は母に病院に連れて行かれた。なんでも、あまりにも僕がすぐ座るので、三半規管に問題でもあるんじゃないかと思い込み、心配になったようだ。
それくらい、母は自分のエネルギーの強さに対する自覚がなかった。


母はT商会という会社に勤務し、タイピストをしていた。
主に外注先からの依頼で、議事録や契約書などをタイプしてきちんと清書するというわけである。
もちろんフルタイム勤務だから、いつも定時に帰れるわけではない。
夕刻になると、時々うちの電話が鳴った。要件はいつも同じ。

「残業で遅くなるから、先に卵かけごはん食べといて」

母は受話器越しにまくしたてると、そそくさと電話を切った。
その言葉尻の微弱な変化に、いつも僕は小さな罪悪感を覚えた。
僕のせいで、母は職場で上司や同僚に気を使い、いろいろと気まずい思いをしているのではないか。
もちろん、大人になった今から振り返ってみると、母が勤めていたT商会は、あの時代にしては子どもをもつ母親に対して理解がある会社だったんだな、ということも理解できるようになったけれど、まだ幼かった僕は、母が、会社どころか、社会でどのような立場に置かれていたかすらよくわかっていなかった。


うちの冷蔵庫には、いつも鶏卵が常備されていた。仕事帰りに母が買ってくるのだ。
最寄駅の近くにライフというスーパーマーケットがあったので、もっぱらそこで購入した物だった。

逆説的かもしれないが、僕にとっては自分で作った卵かけごはんこそが母親の味だった。
何かの実在をより強く意識するのは、多くはその不在による。
母の不在を象徴するその半液体状ともいえる固形物を、いつも僕は流し込むように食べた。
おいしい。
そもそも僕は卵かけごはんが嫌いではないのだ。

そういうことが度重なり、さすがに飽きてきた僕は、様々な調味料を使用して味に変化をつけてみることにした。
こしょう、塩、ねりわさび、マヨネーズ。かつお節。
失敗だったのは、サラダ油だ。ほんの少量振りかけるつもりが、思いのほかドバっといってしまい、かといってお米を無駄には出来ないので、僕は一粒残らずかきこむことにした。
言うまでもないことだが、サラダ油特有の味と匂いが口の中に広がり、いつまでも不快感が残った。
考えると、うちはそんなにいい油を使っていなかったのだろう。母の帰宅後も僕は吐き気を堪え、何事もなかったかのように振る舞った。母に心配をかけるなどあってはならないことだからだ。
その日以来僕は「しょうゆ」または「しょうゆ+少量のマヨネーズ」というローテ―ションを組むことにした。食材を無駄にはできない。当時の僕は、そんなことばかり考えていた。
サラダ油の代わりに、ごま油を数滴垂らすとおいしいということに気がつくのは、大人になってからだ。


ある日、いつものように卵かけごはんを食べ終え、使い終わったお茶碗を流しに戻し、何気なくテレビを見ていると、帰宅した母が突然僕の名を叫びながら強く抱きしめてきた。大量の涙が頬をつたい、僕のTシャツに大きな染みを作る。
普段は絶対に見せない姿に僕は激しく狼狽した。あれだけ気丈な人なのに、一体何があったんだろう。きっと、なにも聞かない方がいいんだろうな。僕は子供ながらの直観で、一言も発さずその場を動かずにいた。いつもの母とは違う匂いがした。そして、内心ではドリフのコントを気にしていた。 

それが母親とハグをした最後の思い出となった。